2012年4月21日土曜日

『天才アラーキー 写真ノ方法』


 フェイスブックに写真と俳句を載せはじめました。俳句は書けても、写真となると全くの素人の私。そこで、にわかにこの本を読んで、写真の本質を学んだところ、俳句や教育との共通点を見つけました。次のようなところを記憶に留めたいと思います。

〈自分が相手を解釈して、自分の考えに添うように、添う方向で撮ろうとかしちゃダメなのよ。そうじゃなくてさ、本能的にパッと感じて撮らないと。これはね、こういうことにも関係してきますよ。ずーっとなんでもかんでも撮りつづけるってことも必要だけど、生活を、人生を、ちゃんとそれなりに鍛えないといけないってことにさ。〉

 これは、私の師匠の鈴木六林男が言っていたことと同じです。俳句は感じたことを書くんだと。席題を出し合う句会などで、私たちがうんうんと頭をひねっていると、「考えたらあかん」とよく言われました。

〈ヒットラーが写ってる写真を見てごらんよ。みんな下から撮られてるでしょ。上から見下ろされ、たたかれるような写真はないでしょ。見あげて撮るとか見おろして撮るとかで意味が出てくるのよ、写真は。だから、俺の場合は必ず視線をまっすぐ、水平志向って感じ、パッと。それがいいんだね。それがまあ、俺の基本。〉

 なるほど、これから私も水平で撮ります。

〈世界のアートの中で日本って独特のクセがあるみたいよ。ちょっとこう傷物にするっていう。傷っつうんじゃないけどさ、なんかこう壊すっていうか汚すっていうか、完璧じゃ嫌っつうようなの。〉

 これは、鈴木六林男は「瑕瑾(かきん=きずのこと)を残せ」と言うてましたね。特に、何句かを並べるとき、いい俳句ばかりだとおもしろくない、と。

〈写真は現実を見せられないっつうことですよ。写真と現実は違うだろう? 写真は、現実に触発された何かなんだな。嘘つきの(ほう)が現実に近いってことがあるからね。現実は幻実です。〉

 俳句では、客観写生が大切と言われていますが、写真でも現実とは違うという感覚なんですね。「現実に触発された何か」を書くんだという思いで臨んだらいいんですね。

〈ほんとはね、絵でも音楽でも、そんな、ギャーってなったらいいもんできるわけないって。もうひとりの冷静なる自分が自分の中にいないとさ。こんなあ、酔ってちゃダメですよ。でもね、酔いだからね、集中っつうのは。集中っつうのは陶酔なんだよ。そんで、陶酔する自分を見ている自分がいないとダメですよ。〉

 これはいいですね。鈴木六林男は、俳句は三人に分かってもらうように書いたらいいと言ってました。そない大勢の人に分かってもらわなくていい、と。その三人のうちの一人は自分やとも言ってました。アラーキーと同じことを言ってますね。
 14歳のときから40数年俳句をやってきたんだから、改めて写真を学ばなくても、いい写真が撮れる。これが、本書を読んだ私の結論です。

0 件のコメント:

コメントを投稿